僕が新海監督の作品において、「言の葉の庭」を推す本当の理由

大事なお知らせ。

ブログの場所を移しまして、現在この記事はこちらでも掲載しております。
今後は新しいサイトの方でボカロの解釈や、様々なことを更新していきたいと思いますので何卒ブクマの方よろしくお願いいたします!
http://nikoatto.sakura.ne.jp/wp/



こんにちは、nikoです。

はじめに。

僕の一個人の感想です。
様々な意見がある中での僕個人の感想です。
人によっては、「こいつは何を言っているんだ」なんて思うところがあるかもしれません。
なので、一つの意見として、こういう考え方もあるという、参考として、一つ聞いていただければありがたいです。

映画「君の名は」で一躍その名を全国に轟かせた新海監督。
僕も拝見させていただきました。
とても良い作品でした。
しかし、僕は本当の新海監督は「君の名は」では到底感じ取ることなどできないと感じました。
『一度見ただけで満足してしまう』作品だと思いました。
決して「駄作だ」といっているわけではありません。
あの人の映像美や、言葉の表現の美しさを確かに「君の名は」でも感じ取ることはできるように思いますが、僕はそうとは思えませんでした。
未だに「君の名は」は本当に新海監督が作ったのかどうかすらわからないほどに、信じられない作風に仕上がったと感じています。
インタビューでは作りたい対象が変わったとおっしゃっていました。
個人から大衆へ。変わったとおっしゃっていました。
それが新海監督の新たな一歩であるなら、僕にはそれが合わなかっただけに話の終末がついてしまいます。
しかし、僕が本当に新海監督の魅力を知りたいのなら、言の葉の庭や、秒速五センチメートル、星の声とかを見てほしいと思います。
そして、今回は僕が新海誠を知った人に、おすすめな作品は「言の葉の庭」である理由を語っていきたいと思います。
よろしくお願いします。


映画「言の葉の庭」に対する僕の気持ち。感想。

僕は最初のシーンで絵と認識できないくらいに、映像が綺麗だったことを鮮明に覚えています。
そしてこの映画の醍醐味はその、映像美だけでなく、「言葉」そのものだったとも覚えています。
この映画は簡単に言ってしまえば、「教え子と先生との恋」の物語であります。
しかし、新海監督の手にかかれば、一瞥するにありふれたシチュエーションでも、他の作品とは似て非なる傑出した作品になります。
人によりいろいろな感じ取り方のできる作品であり、映像の中の様々な部分に目をつけることで異なった解釈ができることもこの作品の奥深さを一層増したものにさせている要因の一つに感じます。

先生が教え子と気づく描写があったにも関わらず、先生はそれを言わなかった本当の理由を考察したりもしました。
先生は「気づくと思った」と作中で言っていましたが、本当にそれだけだったでしょうか。最初は本当にそうだと思いました。しかし、次第に、雨の日を楽しみに待つ先生の表情や声の変わり方を聞いて、それだけでないように感じます。

最後のシーンも何度と見ました。
秋月くんを振るシーン。
これは本当にいろいろな意味合いが込められていると思いました。

例えば、あの公園で一人で歩く練習をしていたと言っていた先生は、秋月くんの好意を本当に嫌っていたわけではありませんでした。自分も好きだと自覚してながらも、断る先生の言葉は、深く傷つけながらも秋月くんをほんとうに知っていなければできない傷つけ方です。「あなたのことが嫌いだから」とか「あなたは私と合わないとか」ありふれた断り方ならどんな場合でも当てはまります。でもこのシーンでの雪乃先生の断り方は、本当に秋月くんを理解していなければ、不可能な言葉選びでした。
「靴がなくても歩ける練習をしていた」
靴を先生のために、自分の夢のために、真摯に作り続ける秋月くんを最も傷つける言葉。それを雪乃先生はあえて選んでいた。あえて選んで、秋月くんを傷つけたのだと思います。
あのシーンは言ってしまえば告白を断るシーンでしたが、その細部にも様々な心情を表す伏線がたくさん入っていたように思います。

その後、秋月くんは帰ってしまい、雪乃先生はしばらく考えたあと、走って秋月くんを追いかけます。
その時、玄関で靴ははかないのです。
決して止まることはなく、裸足のまま駆け出します。
普通に感じ取れば、急いでいたとか、一刻を争っていたとか、そんなんだと思いますが、あのシーンで本当に伝えたかったのは、僕の感想ですが、本当に雪乃先生が一人で歩くことができた、靴を履かずに本当に一人で歩くことができたという象徴だとも思いました。
今まで、怖いからと学校をサボり、教師もやめ、地元に帰ると決意した先生が、唯一、作中で『逃げなかった』シーンでもありました。
秋月くんが雪乃さんを変えた。秋月くんの想いが、一人の女性を独り立ちさせたワンシーンだと思いました。

そして、クライマックスのシーンです。
階段で対面した雪乃さんと、秋月くん。秋月くんが最初に口を開き、底知れない思いとともに雪乃さんを罵倒するシーンです。
最初はためらうような素振りを見せるも、意を決したように切実に罵倒し始めます。
そのシーンの言葉は強く印象に残りました。
秋月くんの揺れ動く感情を繊細に表したシーンだと記憶しています。

最初は雪乃先生と対峙しているような口ぶり、自分たちの立場が、教師と教え子だということ自分に言い聞かせるような口ぶりです。

「先生ならそうと言ってくれ、それだったら靴の話なんてしなかった、どうせ出来っこない、叶いっこないと思われるから」

しかし次第に、その言葉は雪乃さんという愛した人に対する思いをのせるように、でも大人と話しているような口ぶりになります。自分が対等に歩むことのできない大人に対するような口ぶりです。

「子供の言うことだって、適当に付き合えばいいって思ってた」
「俺が何かに、誰かに憧れたって、そんなの届きっこない、叶うわけ無いってあんたは最初からわかってたんだ」

最後には、気づかぬうちに雪乃さんに対する、言葉に変わってきます。

「だったらちゃんと言ってくれよ、邪魔だって、ガキは学校に行けって」
「俺のこときらいだって」

「あんたは一生ずっとそうやって、大事な言葉は言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっと一人で生きていくんだ」

すいません、セリフ覚えている範囲で打ったので、概ねあっているとは思いますが、所々細かいところは間違えているかもしれません。

つまり、この部分では、先生に対する文句に乗せて、自分の気持ちを雪乃先生から、雪乃さんに変わった人に対して、自分の素直な気持ちを伝えたかったのだと思いました。
間、先生の裸足の描写がここでも入ります。

最後の秋月くんのセリフ、先生がしゃくり泣き出すのと同時に雨が上がり陽が射し込みます。先生は走り出し、抱きしめ、声を上げ泣き出します。

雪乃さんも秋月くんに合わせるように、先生として理由を連ねます。
しかし最後はやはり、雪乃さん個人の気持ちになります。

「あの場所で、あたし、あなたに救われていたの」

けっして好きとは言わない、先生と教え子の関係を保つように、でも自分の心から溢れ出る『恋』の気持ちを、絶妙な言葉を連ね、なんとしても伝えようしていると本当に強く感じました。

たった五分くらいのワンシーンなのに、今までのすべてのシーンの細かい伏線をすべて、意味づけるようなシーン。思考をフル回転しても感じ取ることができないんじゃないかと、驚嘆せざるを得ないシーンでした。

雨が上がり、陽が射すシーンも、今まで二人集まるところには雨が降っていました。
個人として会うシーンにはいつも雨が降っていました。
雨が上がるということは先生と生徒としての立場がより濃厚になった。
とも考えられますし――

雨がふるときにしか会えていなかった二人が、陽のもとでも会える。
互いに全てをさらけ出して、それこそ、嘘偽りなく付き合っていく始まりの合図。
とも受け取れると思います。

どんな受け取り方があっても、僕が思うのは
ただの希望に溢れた演出ではなく、意味のある言葉を後押しするような演出であるということです。

最後に

言の葉の庭は46分弱という、本当に短い物語です。
ですが、この46分だけで、何度も何度も見返したいと思うほど、人を惹きつける事ができるのは、僕の知ってる言葉では到底言い表すことができないほどに、『すごい』ことであると思います。

僕も、もう数え切れないほど、「言の葉の庭」を見てきました。
それこそ三桁はゆうに超えるほどに。
それでいても、まだ見たい、この世界にもう一度連れて行ってほしいと思うくらいの作品です。

長く拙い文ですが、この記事をご覧になった方が、「君の名は」だけでなく、様々な新海監督の作品をご覧になり、新海監督のことがより好きになっていただければ僕は、この記事を書いて本当に良かったと思います。

それと!
決して、「君の名は」が駄作だとか言っているわけではないので!
ご了承ください!

コメント

人気の投稿